意義、その1.三分野に跨がる新しい課題

  絶縁体に光を照射すると、電子の励起状態が生成し、基底状態とは異なる電子の分布が生まれる。この変化は、基底状態で成立していた原子間力の均衡を破るので、光励起直後から、結晶中の各原子は、励起状態に即した新しい平衡点を目指して動き出す。そして、余分なエネルギ−を熱として散逸し、結晶の一部に構造変化を引き起こし、平衡状態に落ち着く。この不可逆過程は格子緩和過程と呼ばれ、又、その際発生する構造変化は、光誘起構造変化と呼ばれ、ここ数十年、様々な研究が行われて来た。
  しかし、この光誘起構造変化は、これ迄、結晶の僅かな微視的部分で起きる現象に過ぎないと見做されてきた。ところが、幾つかの低次元有機電荷移動錯体、ポリマ−、擬一次元金属錯体、等での光誘起構造変化は、従来のものとは、その性質が、全く異なる事が、最近、本申請参加者等の実験的研究により明らかになった。これらの物質は、構造は様々であるが、共通の光学的特性を示す。即ち、光励起直後は、僅かな構造変化に過ぎなくとも、緩和と散逸を経るにつれ、ドミノ・ゲ−ムの様に、半巨視的規模にまで自己増殖し、最終的には、基底状態とは異なる格子構造や電子的秩序を持った光励起ドメインが形成される。
  更に、本申請参加者等による極く最近の実験的研究によれば、このドメイン形成は、低次元物質に限られた現象ではない。ドメインの規模、性質、構造変化の大きさ、等は様々であるが、同じ現象が、 フラ−レン結晶 / Bi系化合物 / Mn系磁性化合物 等でも見出されている。
  本申請参加者等の理論的研究によれば、この性質は、対象となる絶縁体が本来持っている多重安定性と密接に関連している。絶縁体が、その真の基底状態の他に、それと構造は異なるが、エネルギ−的には極く接近した準基底状態を有する場合、通常、多重安定と呼ばれる。対象となる絶縁体が多重安定であれば、光によって誘起された構造変化は、最初は僅かでも、格子緩和の途中で、この準基底状態に紛れ込み、増幅・拡大される。そして、最後には、巨視的規模の光励起ドメインが出現する。この多重安定性を目安に捜せば 、光誘起相転移は、前述の物質のみならず、他の様々な物質でも起きる事が期待される。
  この光誘起相転移は、第一には、特異な集団的励起状態を探索する研究であり、その意味では、物質科学での全く新しい課題である。又、この研究は、固体分光学でもある。しかし、従来の分光学では、光は物質の情報を探る為の探索子に過ぎず、脇役に過ぎない。一方、本研究では、光は物質を転生させる原動力であり、主役である。これは、大きな発想の転換であり、この分野の新たな発展が期待される。更に、本研究は、光エネルギ−の流入、熱エネルギ−の散逸と云う非平衡開放系での自己秩序形成の問題でもある。自己秩序形成は統計力学の根本問題であり、この研究を通して新しい進展が期待される。結局、本研究は物質科学、固体分光学、非平衡統計力学の三大分野に跨がる全く新しい課題であると云えよう。

意義、その2.熱相転移では現われ得ない状態でも、光では実現

  ここで、“物質は如何にして成り立っているか”という物質存在論の原点に戻って考えよう。そもそも、絶縁体が多重安定である事は、決して、特殊な事ではない。結晶とは、数種類の原子が一定比で化合したものである。しかし、組成比を決定しても、結晶構造や電子状態の秩序は単純には定まらない。アルカリ・ハライドの様な卑近なものを例にとっても、周知の如く、共有結合相になるか、それともイオン結合相になるかと云う不定性が存在する。全エネルギ−を原子配置の多次元空間で描くと、この不定性に対応して、エネルギ−を極小にする秩序状態は幾つも現われる。その意味で、物質は、程度の差はあれ、常に、何等かの多重安定性を有する。
  当然、絶対零度では、最もエネルギ−の低い極小点(真の基底状態)が実現し、一定の周期を持った結晶が出来る。しかし、第二、第三の極小点(準基底状態)も、その物質中の原子や電子の特性を、真の基底状態とは相補的な意味で反映している。アルカリ・ハライドに戻れば、一方がイオン結合であれば、他方が共有結合になると云う様に、双方とも構成原子や電子の特徴の一部分のみを偏って反映しており、相互に表裏の関係にある。従って、その物質中の原子や電子の挙動を真に解明し、未知の新しい性質を引き出すには、基底状態とその近傍での熱励起を研究しただけでは、不十分である。少なくとも、第二、第三の極小点を反映している準基底状態の性質を解明することが不可欠である。
   しかし、対象となる個々の絶縁体で、具体的に、準基底状態が如何なるものか、予め、解っているわけではない。唯一、準基底状態と、真の基底状態とのエネルギ−差が、熱エネルギ−と、偶然、同程度である場合のみ、我々は、幸いにも、通常の熱的相転移として、この準基底状態の存在を知る事が出来る。しかし、単位体積当たりのエネルギ−差が、熱励起では到底到達できない程大きい場合、如何にして、我々は、その存在を認識すればよいのであろうか。その様な場合ですら、光を使えば、結晶の一部分に、限られた時間内であれ、意識的に、準基底状態を出現させる事が可能になるというのが本申請の主旨である。かくして、我々は、基底状態とその近傍のみに留まらず、基底・励起、両状態を睨み、新しい物質科学を確立する事が出来る。本研究の真意は、このような物質観の前進に寄与するところにあります。


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