大阪大学 産業科学研究所
・恐怖を感じているマウスの脳内にて、トラウマ記憶に関わる脳部位「前頭前野」を対象に、大規模な神経細胞集団の活動を長期的に記録する手法を開発
・機械学習による新解析法により大規模神経活動データの情報解読が可能に
・体験がトラウマ化する際、神経細胞集団が集合体として新たな機能的ネットワークを形成し、恐怖記憶の情報処理を行う仕組みを捉えることに成功
・PTSDなど難治性精神疾患に対する新たな突破口に期待
恐怖心の制御は人や動物の生活で非常に重要です。強い恐怖体験の記憶、すなわち「トラウマ記憶」は、その時の状況と無関係に呼び起こされることがあります。フラッシュバックと呼ばれ、実生活に様々な不自由をもたらします。近年の研究によりトラウマ記憶に脳のどの部位が関わるかは分かってきましたが、そこでの詳細なメカニズムは未知の部分が多く、関連する精神疾患では決定的治療法が確立出来ていません。今回、自然科学研究機構・生理学研究所の揚妻正和准教授、鍋倉淳一所長、大阪大学産業科学研究所の永井健治教授らは、光学と機械学習の融合的新手法によりトラウマ記憶に関わる脳神経細胞ネットワークを検出することに成功し、記憶形成に伴う複雑な変化を捉え、トラウマ記憶が出来てくる仕組みを明らかにしました。本研究はNature Communications誌に掲載されました(日本時間2023年10月6日18時)。
恐怖心の制御は人や動物の生活で非常に重要です。一方、いわゆる「トラウマ(心的外傷)記憶」のように、強い恐怖体験の記憶が日常の無関係な感覚刺激によっても呼び起こされてしまうことも、しばしば起こります。侵入的想起、フラッシュバックと呼ばれ、脈絡無く引き起こされる辛さ・苦しさにより実生活に様々な不自由を強いられることが大きな問題です。
20世紀初頭からトラウマ記憶に関する研究は活発に行われてきました。たとえば、マウスが音を聞いている最中に、微弱な電気刺激を与えると、恐怖反応(すくみ)を示します。学習翌日には電気刺激を与えなくても音を聞かせるだけで恐怖反応を示し、音に対してのトラウマ記憶が形成されていることが分かります。これは、本来無害な「音」と元々嫌な「弱い電気刺激」を同時に経験すると、音に恐怖心を抱くようになる「恐怖連合学習」とよばれる仕組みであり、この実験系を使ったモデル動物の脳科学研究は、心的外傷後ストレス障害(PTSD)などトラウマに関わる精神疾患のメカニズム解明に有効と考えられています。
このようなトラウマが形成される際、脳の中ではどのような変化が起こっているのでしょうか?脳は、こうした感情や情動、そして関連する記憶を制御する重要な器官です。トラウマ記憶を制御する脳領域として、大脳皮質の「前頭前野」と呼ばれる部位の関与が多くの研究により指摘されています。さらに近年の研究により、トラウマ記憶は多くの神経細胞の集団(神経細胞集団)によって保持されていることまで分かってきました。
一般に脳神経細胞は、集団でネットワークを作ることでコンピューターのように情報処理を行うと考えられています。しかし、トラウマ記憶を情報処理するような神経細胞ネットワークは本当にあるのでしょうか。またそれらの細胞集団はどのような仕組みで生み出されるのでしょうか。トラウマ記憶のネットワークや、生み出されるメカニズムの理解が進めば、PTSDなどの難治性の精神疾患の治療法開発に新たな突破口をもたらすことが期待されます。
生理学研究所の揚妻正和准教授(現在、量子生命科学研究所と兼任)、鍋倉淳一所長、大阪大学 産業科学研究所の永井健治教授らの研究グループは、東京大学、玉川大学、メキシコ自治大学、名古屋大学、大阪大学との国際共同研究により、脳の前頭前野に記憶されるトラウマの実態解明に着手しました。マウスを用いて、音・弱い電気刺激による恐怖連合記憶の実験系により研究を進めました。
トラウマ記憶が生まれるメカニズムを調べるには、その成立前後で、同じ細胞集団の活動を比較することが重要だと研究グループは考えました。そこで、「光」で、生きた動物の脳を長期的に計測できる「in vivo 2光子イメージング」に、「低侵襲なプリズム埋込法」「イメージング中に記憶課題を実施するための新装置」を統合した新しい手法を開発しました(図1、2)。それにより、トラウマ体験前と後の両方で、脳深部にある前頭前野の大規模な神経活動観察を実現し、神経細胞集団の活動「変化」からトラウマ記憶の実体を捉えることが可能となりました。
図1 顕微鏡下で恐怖連合学習と記憶想起を行うためのシステム開発
図2 深部2光子イメージングによる前頭前野の活動記録と学習前後の比較
図3 機械学習アルゴリズムを応用した神経活動データ解析法の開発
図4 恐怖記憶神経ネットワークがトラウマ経験で生まれる様子を捉える
図5 今回の発見のまとめ(詳細)
記憶が生まれる仕組みは、長年科学者の議論の的となっていましたが、今回、トラウマ記憶の元となる恐怖体験中に強く活動する細胞が、結果として恐怖記憶の神経細胞ネットワークのハブのようになる「経験依存的なハブネットワーク形成」が観察されました。こうした細胞が恐怖記憶ネットワークの中心にいると言うことは、将来、その細胞の働きを抑えることができれば、PTSDなどトラウマ記憶による弊害を緩和することが出来るかもしれません。また開発したネットワーク評価法は、精神疾患治療薬効果の新指標になり得る可能性があります。
タイトル:"Activity-dependent organization of prefrontal hub-networks for associative learning and signal transformation"
著者名:Masakazu Agetsuma*, Issei Sato, Yasuhiro R Tanaka, Luis Carrillo-Reid, Atsushi Kasai, Atsushi Noritake, Yoshiyuki Arai, Miki Yoshitomo, Takashi Inagaki, Hiroshi Yukawa, Hitoshi Hashimoto, Junichi Nabekura, and Takeharu Nagai.(*責任著者)
DOI:10.1038/s41467-023-41547-5