量子デバイス

千葉 大地  (界面量子科学研究分野  教授

※第13回(2020年6月取材)

柔らかい磁石のセンサが体の動きを推定する

スピントロニクス

コンピュータのハードディスクやセンサ、メモリなど情報を扱う装置の性能を格段に進化させる「スピントロニクス」という新たな技術が浸透している。情報の担い手である電子が電気を流して伝える性質を使う従来の「電子工学(エレクトロニクス)」に加えて、電子の自転(スピン)により磁石となって情報を保持する性質もナノテクノロジーの発達で活用できるようになったからだ。この技術は、すでにほとんどのハードディスクの磁気ヘッド(書き込み・読み出し装置)の高感度化に使われており、今後、IoT(モノのインターネット)の時代を大きく変えるとされる未開拓の応用分野は数多い。

スピントロニクス素子の磁石の性質を自在に操る研究を重ねてきた千葉教授が、全く新しい応用分野に挑んでいる。引っ張る力の方向や強さを検知する素子で、装着して高精度の測定ができるように柔軟なプラスチックの基板上に作成することに世界で初めて成功した。体の動きを推定する「生体モーションセンサ」などの用途が期待できる。

「スピントロニクスの研究は、ノーベル賞を受賞したGMR(巨大磁気抵抗効果)という現象が発見されてから約10年でハードディスクに実用化されたように、基礎研究が応用に結びつきやすい。作成したセンサもこれまでにない高感度な性能を発揮する可能性があります」と千葉教授。

引っ張る力を検出

千葉教授は、東北大学の学生時代に、半導体と磁石の両方の性質がある磁性半導体を開発した大野英男教授(現総長)の研究室に所属したことから、電気的な手法で物質の磁性を変える研究に興味を持った、その後も、京都大学、東京大学と研究の舞台を移りながら、発展途上にあったスピントロニクスの研究に打ち込んできた。

これまでの成果のひとつは、電圧を加えると金属薄膜を重ねた素子の表面にある電子の磁極の方向がそろって強磁性(オン)の状態になり、電圧をかけないとオフの状態に切り替わって、情報を書き込むときに使う2進法の「0」「1」を表わすスイッチになる現象を世界で初めて明らかにしたことだ。このほか、素子の書き込み速度の高速化、省電力化につながる多くの業績がある。

「材料の潜在能力を引き出し、新たな利用価値を創造する」のが信条で、「実験では不可能とされる限界ギリギリの段階まで試してみることにより、身近な材料から優れた機能を発見することもありました」と振り返る。

 昨年4月に産研に赴任、同年に大阪大学栄誉教授が付与された。「産研は、異分野の研究者が交流できる場が常にあり、柔らかい素子の材料についても密に共同研究できました」と語る。大阪の北部に住むのは初めてだが「緑が多く、小学生の長男がカエルと遊ぶのを見て、ビル群の中だった東京の住居では得難い環境と思いました」と喜ぶ。もともと季節感のあるスポーツが好きで冬はスキー、夏は水泳に親しんでおり、家族の満足度も高いようだ。

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小野 尭生 (界面量子科学研究分野  助教

※第10回(2019年10月取材)、2024年4月大阪大学 基礎工学研究科 准教授へ

表面での生化学反応をグラフェンで高感度計測する

  炭素原子が原子1個分の薄さで平面状に結合する特異な構造のグラフェンは、丈夫で表面積が広く、優れた導電性を示すことなどから、高性能のトランジスタなど次世代の半導体材料としての応用が期待されている。その中で、界面量子科学研究分野の小野尭生(たかお)助教は、トランジスタ(電界効果トランジスタ)に仕立てたグラフェンを微細加工し、胃がんの原因菌のピロリ菌について、その酵素反応による生成物を手掛かりにして電気的に検出、定量できるバイオセンサの開発に世界で初めて成功した。また、グラフェン上にインフルエンザウイルスに対する治療薬の反応の機構を再現し、薬理効果を判定することもできた。いずれの手法も表面での反応をリアルタイムに超高感度計測するもので汎用性があり、小野助教は「グラフェンを幅広く応用するための突破口になる魅力的なキラーアプリケーションとして実用化していきたい」と抱負を語る。

ピロリ菌が定量できた

 グラフェンは、原子1個分の薄さの平面なので立体の結晶に比べて大幅に表面積が広いうえ、その表面に接触したタンパク質や病原体などが帯びた電気的な性質(正か負の電荷)に応じて導電性を変化させる。このため、病原体が接触したときの電気伝導率の変化の量を測定し、そのデータから病原体の量をつきとめる仕組みのバイオセンサに最適の材料と考えられているが、大きな課題が残されていた。水溶液中では、例えば、対象物の表面の電荷が「正」の場合、そこからわずか1ナノ(100億分の1)メートルほどの距離でも、溶液中の「負」のイオンにより中和されてしまう「デバイ遮蔽」という現象があり、直接に表面を測定できなかった。そこで、小野助教は、ピロリ菌が、棲息する胃の中で強酸を中和するため、酵素(ウレアーゼ)によりアルカリ性のアンモニア(NH₃)を生成することに着目。ピロリ菌そのものではなく、NH₃を測定することにした。

 開発された装置は、まず、半導体の微細加工のさいにマイクロ(100万分の1)メートルサイズの微細構造の「マイクロ流体デバイス」を作る手法を使い、グラフェン上に、容積がフェムト(1千兆分の1)リットルサイズの極微小な反応容器を設けた。そこにピロリ菌を捕捉し、生成した極微量のアンモニア(NH₃)の液滴を対象にして、電流の変化量を測った。その結果、従来の検査キットの10万分の1の低い菌体の濃度でも精密な定量が可能なことが分かった。

ウイルス治療薬の効果を判定

 一方。インフルエンザウイルスに対する治療薬の効果判定については、ウイルスが宿主の細胞内で増殖した後、この細胞から外に出るときの酵素の反応を調べる高感度でコンパクトな装置を開発した。

 宿主細胞の表面には糖がつながった糖鎖という高分子が突き出していて、その末端のシアル酸という成分がウイルスと結合しているのでウイルスが持つ酵素(ノイラミニダーゼ、NA)によりシアル酸を切り離さないと離脱できない。この酵素の働きを阻害するのが治療薬で、「ウイルスを細胞内に封じ込めて感染拡大を防げるかどうかを迅速に判定できれば、創薬の効率化につながります」と説明する。

小野助教は、グラフェンのトランジスタ上に糖鎖を固定して電気的に測定する装置を作製。NAを添加すると、負の電荷を帯びたシアル酸が切り離されるに伴い電流量が減少したが、特定の阻害薬を加えると、電流の変化はなくなり、NAを阻害する効果があることを実証できた。「バイオセンサは現場に持ち運ぶことが多く、できるだけコンパクトな装置を開発していきたい」と意欲を見せる。

主体性をもつ

「主体性を持ち、何ができるかよく考えてから、着実に取り組む」のが小野助教の信条。東京大学工学研究科の大学院生のころから、超微細加工技術を使ったバイオデバイスの研究を重ね、1分子イメージングなど最先端の分野に挑んできた。グラフェンをテーマに選んだのは阪大産研に赴任した2015年からで、「ラボ・オン・グラフェン(グラフェン上の実験室)」の研究にまい進している。

 実は、小学生のころは「ドラえもん」のファンで、なんでも取り出せる四次元ポケットにあこがれた。高校生のころは「経済学部か理系か」と悩んだが、父親の小野恭平・北海学園大学名誉教授(建築史)の影響もあり、理系に進んだ。「父親は自宅を設計したり、中学生のころにイタリアなど欧州の建築探訪に連れて行ってくれたり、大学の教員は自由でいいなという思いが募っていました」と打ち明ける。いまは、自宅の書斎で読書にふけるのが唯一の息抜き。今年10月からのJSTさきがけにも採択され、今後の活躍がますます楽しみだ。

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松本 和彦 (半導体量子科学研究分野 教授

※第2回(2016年10月取材)、2018年3月に定年退職

 炭素原子だけで平面状に網のような構造をした分子の「グラフェン」は厚みが原子1個分の0.3ナノ(ナノは10億分の1)メートルしかなく、筒状のカーボンナノチューブ(CNT)とともに「ナノカーボン」と総称される素材だ。このため、ナノの世界の量子力学という物理学による振る舞いをして、分子内の電子の走る速度が従来のシリコンなどの材料の100倍―1000倍にもなる。だから、高感度センサーや高速のトランジスタの開発に向けて各国の研究者がしのぎを削っている。

 その中で、松本教授らはグラフェンを使い、高毒性の鳥インフルエンザウイルス(H5N1)を高感度で検出するバイオセンサーの開発に世界で初めて成功した。このウイルスは鳥からブタに感染し、体内でヒトにも感染するように変異する。ウイルスは動物の細胞に進入するさいに細胞表面の特有の分子構造(糖鎖)を認識するが、その構造がブタとヒトでは類似であるからだ。

 センサーの仕組みは、シリコン基板上にグラフェンを含むトランジスタを作り、ウイルスのタンパク質がヒトの糖鎖に結合するかどうかを電気的に識別する。これまでの検出方法ではウイルスを採取して100万個に増殖するまで待つ必要があったが、100個程度で済むのでその場で判定でき、懸念されているパンデミック(大流行)を防げる。他の病原性ウイルスをはじめ、神経細胞の電気的変化の測定など幅広く使える可能性があり、グラフェン応用の代表例になりそうだ。

 「エレクトロニクスの研究を続け、常に何か新しい分野で役に立つものをと考えてきました。それが、バイオ分野でも実を結びました」と松本教授。これまでガリウムヒ素(GaAs)の化合物半導体やCNTなど新規に登場した材料で、数々の世界初の業績を積んできた。それだけに「新たな分野には3人のライバルがいるので他人の3倍働く」が信条。40歳ごろまでは、テレビも新聞もほとんど見ないほど実験研究にのめり込んだ。

 一方で、国内外の4000メートル級の山に挑む登山家の側面もある。米国スタンフォード大の客員研究員時代から、富士山によく似て美しいレーニア山(ワシントン州)が特にお気に入り。趣味でも頂上を目指している。

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大岩 顕 (量子システム創成研究分野 教授

※第2回(2016年10月取材)

 光や電子は粒子と波の性質を兼ね備えた「量子」と呼ばれる素粒子の仲間で、古典的な物理学とは異なる量子力学の世界で特有の振る舞いをする。この2つの量子のどちらか一つを使い量子コンピュータを作ると、例えば現在のスーパーコンピューターが計算に100億年かかるという素因数分解の問題に対しても数秒で回答できる。この夢の実現に並行して解読不能な量子暗号のカギを送信することで絶対安全な長距離量子情報通信を実用化する研究も進んでいて、大岩教授は特有のデータ処理の基本原理を実験で証明することに成功。さらに、通信距離を確保するための中継器の開発に挑んでいる。

 現在のコンピュータは回路を流れる電気の「オン(1)」「オフ(0)」の2進法で計算する。しかし、量子をコンピュータや情報通信に使うときの量子計算は光子により生じる電子の磁石の性質である「電子スピン」の上下方向を電子の裏表で重ね合わせて数値を表す。「量子ビット」といい、この方法だと「1」と「0」の間の数字も同時に表現できるので、超並列処理が可能になり、格段に計算力が増す。大岩教授は、半導体上に1個の電子だけを閉じ込める超微小な「量子ドット」という箱をつくり、絶対温度(氷点下273度)に近い極低温で、弱い光を照射し調べた。その結果、「右回りの円偏光に対しスピンは下向きになる」など光子をスピンに変換するさいの対応関係が明確になった。「これで長距離量子情報通信を行うデバイス作製の有力候補が見つかったと思います」と大岩教授。

 ただ、長距離量子情報通信には、約100キロ離れれば、量子状態が減衰するという難点がある。そこで、送信する側の量子ビットが「1」なら、遠く離れていても必ず受信側は真逆の方向の「0」になるという「量子もつれ」の原理を使い、途中でデータを復元する量子中継器の開発に挑んでいる。

 「大学院からスピントロ二クスの分野に入り、強磁性体の半導体の発見という幸運に恵まれた。そして、現在は量子計算と研究対象は変わってもスピンへの思いは不変」と振り返る。だから、学生には「楽しんで研究できるテーマを選んでもらう」。小学生からのサッカー選手で、いまは研究所のフットサル大会に率先して参加する。「サッカーが盛んな欧州の学会ではフットサルのイベントで交流を深めます。健全な精神は健全な肉体に宿るでしょう」。

 

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関谷 毅 (先進電子デバイス研究分野 教授

※第2回(2016年10月取材)

 情報通信社会が急速に進展する中でヒトの生活スタイルは多様化している。このような背景の中、シリコン半導体だけでは実現が困難な新しいエレクトロニクスに期待が集まっている。その代表例が、柔軟性や大面積性を必要とするエレクトロニクス、すなわちウェアラブルセンサであろう。シリコンエレクトロニクスの難点である硬さや大面積展開の困難さを補うことを目的に、有機材料を使ったエレクトロニクスに対する期待が高まっている。生体になじむ柔らかさを持つ薄膜で、印刷技術を用いれば大面積にできるうえ、低コストという優れた機能を備えており、これはシリコンLSIでは実現が極めて困難だ。関谷教授は、世界で初めてくしゃくしゃに折り曲げたり、ゴムのように伸縮させるたりすることが可能な有機トランジスタという電子スイッチの作製に成功し、この業績を主軸に研究を展開。医療分野をはじめ、IoT(モノのインターネット)時代を見据えて基礎から応用までの幅広い研究を手掛けている。

 関谷教授は、薄膜高分子を材料に、このフィルム上に有機半導体を用いた有機トランジスタを作製し、半径1ミリ以下まで折り曲げても作動するほどの柔軟さを持つことを初めて実証。2ボルトの電圧で駆動する大規模集積回路などの開発にも成功した。また、ゴムのように伸縮自在な薄膜トランジスタの集積回路や、厚さわずか1ミクロンのフィルム上にセンサを作成するなど有機デバイスの強みを生かす成果を上げてきた。2014年には、トムソン・ロイター社が発表する「高被引用研究者(世界で影響力を持つ科学者)」の1人に選ばれた。

 最近の成果は、シート型の脳波センサの開発。額に貼り付けるだけで検知しにくい脳波のデータを取り、コンピュータに送信して睡眠の質などを見える化できる。このタイプのセンサは医療機器に匹敵する精度を有しており、認知症など脳の病気を解明するプロジェクトも行っている。

 一方で、このセンサはインフラの点検保守の省力化にも貢献する。電力会社の地下ケーブル設備のコンクリート壁に多数のセンサネットワークを配置し、ネット経由で劣化の度合いをチェックするという構造物ヘルスケア用IoTシステムを実現しており、近く本格的に始動する。

 こうした多彩なテーマに取り組む研究室だけに理工系の研究者に加え、医師や企業の土木チームなども所属してシステム設計などで現状に即した議論を深める。「真に社会の役に立つモノづくりを誰もが手にできる大きさとコストで実現する」が関谷教授の信条。研究の提案書を作るときに、「考え得る最上の未来社会を想定することが何より楽しい」と話している。

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次世代のデバイスに挑む研究陣

 ようやく実用の形が明確になってきた「モノのインターネット(IoT)」や「人工知能(AI)」は、加速度的に発達する情報社会が求めてきた理想のデバイスや通信技術の集積ともいえる。その突破口を拓いてきたのがナノテクノロジー。原子や分子が単独で存在するナノメートル(10億分の1メートル)サイズの場に特有の量子力学という物理学の法則を生かして新素材やデバイスを作り出し、それまでの限界を一気に越えようとしている。

 産業科学研究所第一研究部門の量子科学系の3研究室は、この分野のそれぞれのテーマで最先端を走っている。大岩顕教授は、現在のスーパーコンピュータをはるかにしのぐ量子計算の手法を応用し、絶対安全とされる長距離量子情報通信の開発がテーマ。照射した光(光子)に対応する電子のスピンの向きを特定し、計算に使える数値になることを実証したが、その背後には数千回の実験を重ねるという試行錯誤があった。「そこに研究の面白さがあり、理解し参加してほしい」と学生らに呼びかける。華やかな成果を生む前の不断の地道な努力に取り組める若手人材の育成は、日本の学術研究がかかえる共通の課題でもある。

 鳥インフルエンザウイルスを微量で測定できる量子・バイオセンサを開発した松本和彦教授は、常に「世の中の役に立つ」ことを胸に抱いてきた。このセンサもパンデミックの防止に画期的な効果を発揮する。高感度のセンサーになるグラフェンという優れた有機材料(ナノカーボン)に出合うまでは、エレクトロニクス分野でさまざまな半導体材料を究め、業績を積んだ。そして、バイオへと分野をいとわぬ対応力と知見の蓄積が功を奏した。「3倍働く」研究生活を続け、どんな分野にも辞さずまい進してきた足跡は、科学の分野が融合再編する時代の研究者の生き方を示すうえでも貴重な存在だ。

 折り曲げられるウェアラブルな有機トランジスタという次世代の電子デバイスをいち早く実現した関谷毅教授は、その成果を医工連係やIoTのシステムづくりに生かすプランナーであり、研究室に所属する医師ら異分野の多くの人材とともに研究の出発点から出口まで手掛けるプロデューサーでもある。社会のニーズを的確にとらえて素早く研究にフィードバックする起業家のような感性は、多様化する社会に期待される研究者像に結びつきそうだ。

執筆:坂口 至徳

昭和50年、産経新聞社入社。社会部記者、文化部次長、編集委員兼論説委員、特別記者などを経て客員論説委員。この間、科学記者として医学医療を中心に科学一般を取材。